48JIGEN *Reloaded*

父のこと。

2010/07/11

兄が父の他界についてとても良い日記を書いてくれた。それを受けて、というわけではないけど、自分なりに思うところも残しておきたいと思って書いてみようと思う。兄の日記のように感動するわけでもないし、いい話を書くわけでもないので予め断っておく。その上無駄に長いので、忙しい方は時間のあるときに読むことをお薦めしておく。

父と過ごした時間のこと。

土曜日の夜19時くらいだったと思う。20年前、小学2年生だった僕が、父から単身赴任することを告げられた時間。土曜の夜19時台といえば、見逃せないアニメが放送されるゴールデンタイムだったのに、テレビそっちのけでわんわん泣いた。どんな理由があっても僕が泣くと「男は泣くものじゃない」と言って怒った父だったが、この時ばかりは僕を抱きかかえて慰めてくれたのを覚えている。

報道関係の仕事をしていた父の単身赴任は、僕が中学を卒業するまで7、8年続いた。その間、父は月に1回くらいのペースで、数日間だけ札幌の自宅に帰ってきた。他の家庭と比べると父と過ごせる時間は限られていたけど、その分過ごした時間は濃密に覚えている。

父が帰ってくることを、僕たち兄弟は心から楽しみにしていた。父が自宅に戻っている間は普段行かない外食に行くことが多かったし、外食の帰りに本屋に寄ることがあれば、1人1冊まで好きな本を買ってもらえた。そして何より、父という存在が家にいることで家庭全体が守られているような感じがして安心できた。

父と一番会話をしたのは、風呂の時間だったと思う。父は普段どちらかというと静かな、あまり口数の多くない人だったけど、肩の力が抜けるのか、風呂ではよく話してくれた。父の仕事の話、僕の学校の話。「自分の血筋は運動神経はないからあきらめろ」って言われたのがどうしても悔しくて、中学ではバレーボール部に入部したっていうこともあったな。

「人生で大事な決断を下す時は必ず逃げ道を用意しておけ」っていう話が記憶に残っている。小学生だった僕にこの言葉の意味が完璧に理解できるはずないのだけど、後々のためにとりあえず言葉だけは覚えておこうと思った。

僕が成長して高校・大学へ進学するにつれて、僕が自宅に居ない時間が増えて、父と話をする時間は家族集まっての食事の時くらいになっていった。大学4年生になり、東京で就職して働くことを決めたとき、父はこんな話をしてくれた。

「お前ら兄弟二人とも、小さい会社だけど、好きにやればいいんだ。もし駄目だったら、それはお前らの責任だからね、俺は面倒見ないけど、アルバイトでも何でもやって暮らせばいいんだから」

運動神経の話、逃げ道の話、自分の責任で好きにやればいい話。この辺りは、僕は澤田家の教えだったと思っている。もし将来子供を授かることがあれば、語り継いでいくつもりだ。

家庭での父のこと。

母の言葉を借りると、父は「家では何もしない人」である。雪かきも、洗車も車のタイヤ交換も、庭の手入れも、大掃除も、おなじみのそば屋までの2kmくらいの車の運転も、一切手伝うことがなかった。仕事の関係者向けの年賀状作成に至っては、プリントゴッコと宛名書きまで全て母が担当して、父は表面に一筆書くだけでよいところまで段取りされているのに、それでもなかなか書かないほどだった。

見事としか言いようがないその「家事不介入」の徹底ぶりのおかげで、小学生だった僕は母から「普通のお父さんはもっとちゃんとするのよ」と繰り返し聞かされた。母が正しいのは明白だったけど、仕事で頑張っている、尊敬する父を否定することにも気が引けて、どういうポジションをとればいいか途方に暮れたものだった。(結局僕たち兄弟が家事を手伝うことで、家庭内の不和を調停して秩序の維持に貢献するという図式だったことも付け加えておく)

その代わり、父は仕事に熱心に取り組んだ。会社でも評価されて、少しだけだけど出世したと聞いている。家庭からは仕事ぶりを想像することしかできないけど、仕事を頑張り抜いた父のことは、家族全員が今も誇りに思っている。

これが正しい父のあり方と聞かれると答えるのは難しいけど、澤田家の父はそのように在った。家族が父の仕事を尊重して応援したし、父も父なりのやり方で家族を尊重して応援していた。(そのやり方があまりに下手だったので母は文句ばかり言っていたけど)

お互いを認め合う家庭環境の中で生まれ、育つことができて僕は幸せだった。

札幌のこと。東京のこと。

大学を出るまでの22年間を岐阜で過ごし、その後40年の生活の拠点を北海道に移した父。最期を札幌の病院で迎えた父だったが、父の目には札幌の土地はどんな風に映っていたんだろう。そんなことを、いつまでたっても見慣れないこの東京の風景を眺めながら考えてみたりする。

僕は東京へ出てきて今年で10年目、社会人になってから6年目になる。最近は責任のある仕事も増えてきて、いわゆる「世の中の厳しさ」と言われるものについて、僕なりに少しずつ経験を重ねてきた。忙しさにかまけて大事なことを見失っていないか、そんなことも考えたりする。

北海道に移って仕事を始めたばかりの父は、どんな風だったのだろう。

葬式の日に、父の姉から昔話を聞くことができた。その話では、北海道へ配属になって数年した頃、岐阜の実家に「仕事がきつい」と漏らしたことがあるらしかった。(そこで「そんなら辞めて帰ってこい、市役所で働け」と叱られて、その後は一切言わなくなったそうだが)

結局父は38年間、報道関係の仕事に従事し続けた。

父にとって大事なものは何だったのだろう。父は札幌での人生で何を見つけ、何を手にしたのだろう。この辺りのことは、この夏に少し考えてみたいと思っている。これは、父への餞(はなむけ)というよりは、自分にとって大事なものを見つめるため。もう1度よく考えてみたい。

最後まで読んでくれた人、どうもありがとう。兄の日記にもあるけど、ご両親との時間をくれぐれも大切に!!

R.I.P. お父さん。ありがとう。大分先ですが、あの世に行ったらまた会いましょう。

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